「―――いや、申し訳ない。物取りの類かと思ったのだが……よもや、この身が既に死人で、しかも怨霊扱いされているとは思いもしなかったのでな。許して欲しい」
「い、いえ! むしろ謝るのは私の方で……鳳凰院様」
「鶯妃(おうひ)で構わんよ。その家名は、今の私には不相応に過ぎる」
「あ…では、鶯妃…様。こ、この度は、本当に、申し訳ありませんでした」
 羞恥と謝意で頭を下げるチューリップに対して、ベッドに腰掛けた件の女性――――この館の主である鳳凰院鶯妃は、薄い笑みを浮かべて頭を振った。


「こちらも確認せず斬りかかった……無論峰打ちのつもりではあったが、どちらにせよ軽率だったし、何よりこの風体だ。確かに怨霊と見間違えられても仕方あるまいな。……半年もこの館に引きこもっていた身だ、死人扱いされたとしても文句も言えないさ。……しかし、なるほど。通りで皆窓際の私を見て、必死に逃げ去るわけだ」
 そう言って、腰まで延びきった前髪を払いのける鳳凰院鶯妃。半年もの間だ、この洋館から一歩も外へ出ていないという彼女の肌は血色が悪く、目も血走っている。目の下にも隈がくっきりと浮かんでおり、折角の端麗な容姿も台無しだった。
「それにしても、まさかあの程度の動きで身体が参るとは……半年の不健全が祟ったということか。怨霊としては、なんとも滑稽な話だ」
 そうクツクツと自嘲を浮かべる彼女の横顔すら、チューリップにはどこか悲しげに見えてしまった。まるで本当に幽鬼染みた雰囲気を纏っていて――――理由こそ分からないけれど、彼女が極度に疲弊しているが故なのだとチューリップは思う。
 鳳凰院鶯妃―――彼女は4年前、帝國の侵略に敗退し滅亡したJ国の軍人であり、いずれ軍政国家J国を継ぐことになる大総督の息女であった人だ。そして帝國がJ国を吸収した際に、J国の軍人たちの殆どは名誉騎士として帝國に迎えられたが、彼女もまたそんな騎士の一人である。つまり現在の彼女は、歴とした帝國軍人であった。
 だからチューリップは合点がゆかず、小首を傾げるしかなかった。正規に軍籍を置いている彼女が半年間もの自主的な自宅謹慎をしていたことも勿論問題であるが、だからといって自殺したなどという風評が果たして立つものだろうか。確かに俗説こそ浮かぶだろうけれど、仮にも帝國の騎士が自殺したなどという噂が広まれば、否応なく軍部の調査が入るはずである。
 そんなチューリップの不審を察したのか、鶯妃は諭すように口を開いた。
「……君に噂を吹き込んだ、そのメイドの名は?」
「え、あ…ほ、ホルンでしゅ、いえ、ですけど」
「ホルン……そうか、若松殿の計らいか、これは。奴め、いい加減出てこいと言うのだな…」
 納得いった様子の彼女に、チューリップはますます首を傾げるしかない。
「つまりだ。そのホルンというメイドを使って、その伴侶である若松幸示が君をここに寄越したということだ。若松殿とは並ならぬ縁がある。こうして館に閉じこもってしまった私を見かねたものの、自分が赴いたのではあからさまだ。そこで何も知らない君を使った。チューリップ殿はまんまと奴の奸計に乗ったのさ」
「………あー…」
 なるほど、そういうことか―――チューリップはため息をついた。
 ホルンの配偶者である若松幸示もまた、元J国軍人の名誉騎士である。鳳凰院鶯妃の身を案じても何ら不思議ではない。おそらくホルンは何も知らないままに夫に計られ、チューリップもまたその口車に乗せられたのであったのだ。
 おそらく、彼女の口ぶりからしても、この洋館には〝祟る何者かがいる〟という噂は本物だろう。若松幸示はそこに〝自殺した女主人〟というフレーズを加えたに過ぎない。しかし、だからといって完全に信用してしまった自分に、チューリップは更に落胆するしかなかった。おかげで生者を死人扱いするという失敬極まりない愚を犯してしまったのだから。
 けれど鶯妃自身は、そのことについて咎める気は毛頭ない様子だ。むしろその若松幸示の作り話が身に沁みすぎてしまって、笑うしかない心境であるらしい。
「死人か、まったく…骨身に染みる皮肉だ…」
 けれどその笑みすら、己への嘲笑でしかない。この女性の笑みはどこまでいっても、自身を蔑むものだったのだ。
「あの……差し出がましいかもしれませんが、その…」
「――――さて。チューリップ殿……君は私について、どこまで識っている?」
 何故、引き籠もる真似を? そう問おうとした矢先に鶯妃に訊ねられて、チューリップは焦って記憶の微かな情報をたぐり寄せる。
「え…あ、その…確か…」
 鳳凰院鶯妃。次期大総督を約束された優れた武官であり、そして、自らの手で祖国の歴史を閉じた女性。
 J国は本土決戦を前にして、徹底抗戦の意を構えた上層部に対してクーデターが起き、帝國がトドメを刺す前に内部から瓦解した。そのクーデターの首謀者が他ならぬ鳳凰院鶯妃その人であり、その働きによって帝國はJ国本土を無傷無血で手にすることが出来たのだ。
「……詳細は知りませんが、J国の上層部は本土決戦において、数百万単位の国民の玉砕も視野にいりぇ…入れていたと聞きます。それを看過できなかった鳳凰院様方が反旗を翻したおかげで、無用な血が流れることなく、4年前のJ国戦争は終結した…そう聞きます」
「ああ。上層部は本土決戦において数百万……あるいは数千万の国民を犠牲にするつもりでいた。自国を守るために自国民の半数に死を命じるなど大義にあるまじきと、私は上層部に対して蜂起し――――結果、晴れて大総督である父を殺した売国奴となったわけだ」
「そんな…! あのクーデターは英断であったと、我が国は見ていましゅ。貴方の決断は正しかっらハズでしゅ…!」
 鶯妃の自らを軽蔑する物言いに、チューリップは思わず言葉が訛るのも関せずに堰を切っていた。いくら敗北が目前であったとしても、国民の半数以上を犠牲にする作戦を立案したその上層部は国政にあるまじきもの。だからチューリップは断言できた。
「……しかし、自国を売ったことに代わりはないんだよ、チューリップ殿」
 けれど鶯妃もまた、そう切り捨てたのだ。
 どんな大義名文があれ、例えそれが自国民数千万の命を救うための善行であれ――――祖国数百年の歴史に幕を閉じた裏切り者の主犯、帝國に領土を明け渡した売国奴、徹底抗戦を唱えた父を殺めた親殺しであることに変わりはないのだと。
「帝國の戦後処理は非の打ち所のない見事なものだった。おかげで我が祖国の風習も文化も失われず、ただJ国という国家のみが歴史から消えたのみだった。それには感謝している――――が、帝國とともに元祖国領の安定に費やした労苦が終わったある瞬間、はたと気がついてしまったんだ…」
 鶯妃の笑みがより自嘲を浮かべた。
「半年前、帝國のとある皇族から見合いの申し出があった。私もこれからは帝國軍人として働く身故、それもよいと思って受諾した。………その席で、つい聞いてしまったのだ」
「なにを…でしゅか?」
「帝國が、我が国に攻め入った理由だ。彼は皇帝の言葉をそのまま語ってくれたよ。……近かったから、と」
 チューリップが言葉を失ったのを見やって、鶯妃は「ああ、いや…そういう意味ではないんだ」とへつらってみせる。
「別に理由が気にくわなかったのではない。むしろその単純明朗な理由が、あの豪放磊落な皇帝らしいと感心してしまったほどだ。人間としては失格だろうが、私は根から武人でな。群雄割拠のあの時代に生まれた者として、覇を唱える者としての侵略の理由など、その程度の方が好感が持てる。その言葉が戯れか本意のものだったのかを確かめてはいないが、少なくとも、建前を並べ立てて自己利に走るような我が父よりもよほど…な」
「ぁ……じゃあ…?」
「むしろ問題なのは私自身だった。私は納得したがな……今の君のように、そんな理由、万人には到底通じないだろう?」
「……だと思いましゅ」
「そんな皇帝陛下に、私は祖国を売ったのだよ。チューリップ殿」
 クツクツと、長い前髪の奥で笑う彼女。
 その様はどこか、泣いているように見えた。
「本当に帝國を恨んでいるわけではない。ましてや皇帝の本意で本当にそうであったとしても、私は彼を憎むことはないだろう。だが我が祖国の民のすべてが納得することはないだろう。私が殺めた父は間違いなく激昂することだろう。―――…そう思ったらふとな、国を売った事実が急に重たくなってしまって…な」
 だから引きこもったのだ。半年もの間だ、この屋敷に。
「今でもあの決断は間違っていなかったと思う……祖国数千万の命と、国の歴史など秤にかけるまでもないと確信している。それでも……あるいは、他に方法があったのではないかと。上層部の暴走を押し止めて、祖国を存続させる方法はあったのではないだろうかと…」
 そんなの、有り得ない。チューリップは唇を噛みしめる。
 J国の敗北は明らかだった。まともに抗戦すれば、残されたJ国の軍隊は間違いなく全滅していただろうし、J国市民にも多大な犠牲が出ていたことは明らかだ。それこそ、文字通りの玉砕でしかない。ホルンの伴侶である若松幸示が存命しているのも、今ここに鳳凰院鶯妃という忘れ形見が生きているのも、今もなおJ国の風習を伝える元J国国民の殆どが帝國の下で平穏に暮らしているのも、鶯妃の無血開城という決断があったからこそなのだ。
 そしてそれは、鳳凰院鶯妃という個人の力ではない。彼女に付き従った者たちの力だって当然あったはずなのだ。それなのに、何故彼女は独り苦しんでいるというのか。
「………すまないな、チューリップ殿」
 気がつくと、鶯妃が頭を垂れていた。
 それほどまでに、チューリップは表情を崩してしまっていたのだ。
「理解はしているんだ。あれしか国民を守る術はなかったんだと……けれど、これは…未練なのだろうな…。平穏の世になってようやく、自分が一つの国の歴史を終わらせてしまったのだと気がついてしまって、その重責から逃れる術があるのなら――――…そんな馬鹿げた、益体もない未練だよ」
 窓の外を見やる。噂にあった窓だ。彼女はそうやって半年間、窓越しにしか外界を見てこなかったのだ。
「親を殺し、祖国の歴史に背いた売国奴。そんな人間が外を歩くことすら罪なのではと、そう自覚してしまった人間はどうすればいいのかと、引きこもって考えてみたのだが――――気がつけば半年経っていたよ。その成果と言えば、乳母の婆やや……若松殿にいらぬ気苦労をさせただけ。それに、見合いの席では錯乱して相手の皇族を殴り飛ばしてしまった。その謝罪すらせず……果ては怨霊扱い、か。まったく、一体なにをしていたのだろうな…私は」
 窓の外を眺めながら呟く彼女は、やはり泣いているようにチューリップには見えた。
 一国の歴史を、それまでの数億数十億の人間たちが築いた枠組みを一瞬で壊してしまった事への責任。幾らJ国の文化や風習が帝國に尊重されようとも、自国民を守るための英断だったとしても、激動の時間が彼女に迫った運命なのだとしても、彼女にとってそれは慰めにはならない。地図から失せた祖国の名を消したのは、紛れもない自分自身なのだからと。
 戦後の激務が終わり、走り続けた足を止めて振り返ってしまったが為に気がついてしまった罪に、鳳凰院鶯妃は囚われてしまっていたのだ。
 おそらく彼女の苦悩は、あまりに高潔で優しすぎるがためのものなのだろうと、チューリップは思う。女性は凛として慎ましく、男児は毅然として勇ましくあれというのがJ国で美徳とされた国民性と謳え聞いた。鳳凰院鶯妃という女性はおそらく、物心ついたときからかくあるべしと振る舞い生きてきたのだろう。そうして培われた廉直なる人格者であったが故に、国も名誉も地位も棄てて親を討ってまでして国民の命を守ろうとしたのだ。
 そうしてその優しさが、今の彼女を縛っている。戦争から解放された人々の暮らしが安定し、労苦が報われて彼女の時間にもようやくゆとりが出来た。その隙間に差し込んだほんの些細な切っ掛けが、彼女に再び問いかけたのだ。
――――〝かくしてJ国の人々の命は守られた。ならば――――お前が手にかけた父親、高官らの無念に、棄てられ破壊された国の歴史の無念に、お前はこれからどうやって償うのだ?〟と。
 そうして、答えなど見つかるはずもなく、彼女は鳥籠に閉じこめられた。
 ずっと後悔している。何か別の道もあったのではないかと。しかしそんな道などあるはずがなく。
 償い方は分からないまま。その罪との向き合い方が分からないまま、ずっと窓の外を見つめるだけ―――――。
 それが今の鳳凰院鶯妃という女性のすべて。
 その手を、次の瞬間チューリップは掴んでいた。
「飛びましょう」
「え…?」
 訝しげに何か口にしようとする鶯妃を無視して、チューリップは飛んだ。
 窓をぶち破り、鶯妃の手を掴んだままに夜空へと飛翔する。懐かしい夜風が体を撫でていくのを感じて、めいいっぱい深呼吸する。
「鳳凰院様も、深呼吸してくだしゃい」
 いきなり空を舞わされ虚を抜かれていた彼女だが、さすがに武人を名乗るだけあるのか。すぐに適応して水平にバランスを取り、チューリップと並ぶようにして中空に身を任せた。そして深呼吸。
「……どうですか、帝國の空は」
「ああ、そうだな……悪くない。言っただろ、帝國を恨んではいないと…」
 その答えにチューリップはにこりと微笑み、バサバサと夜空をゆっくりと浮かぶように飛ぶ。
「――――私のマスターは、J国との開戦からすぐ後に、お亡くなりになりました」
 そうして、ぽつり。
「老衰でした…。私が、マスターの衰弱に気がつかないまま、マスターを国において、戦場へ向かったために…手遅れに…。私は、そう思っています…」
 独白するチューリップを、鶯妃は黙視した。彼女が自分の世迷い言に耳を貸してくれたように。
「それからは…私にマスターと呼べりゅ人はいないままです…。だから私はずっと独りです…けれど、マスターは最期に言ってくれました。独りでも頑張れと、いつか私を必要としてくれりゅマスターが現れるまで、泣かずに、独りで頑張れ…と」
 幼いチューリップの横顔は寂しげで――――けれど、けして泣いてなどいなかった。そのマスターの最期の言葉を頑なに守るかのように、笑っているのだ。
 その姿を鶯妃は凄惨とすら思った。チューリップの容姿があまりに子供だからかもしれない。こんな広い空を、死んだ主の命を守って独りで涙を封じ飛んでいた事を思うが故かもしれない。
 けれど、それは間違いなのだと、次瞬に気がついた。
「だから私は今も、この帝國の空を独りで飛んでいます。マスターの愛した帝國の空を飛んで、私に出来りゅことを探して、私なりに頑張っていましゅ。……それは、人から見れば些細なことかもしれません。腹立たしいことに見えるとも言われました。でも、それが今の私に出来る、しなければならないすべてなんです」
 少女はまったく泣いてなどいなかった。涙を堪え、孤独に怯え、マスターの死を悲しみ、その責任が自らにあると罰し続けても――――彼女は泣いてなどいない。頑張れといってくれた人に報いるために、そんな迷いなどに臆することなくこの空をひとり飛んできたのだ。
 むしろ哀れだったのは、愚かだったのは自分だと鶯妃は思い知った。この広大な空をずっと独りで、罪過を背負い続けてもなお飛翔し続けていた彼女と、気付いた罪過の重さに怯え狼狽し、与えられた館に逃げ籠もった自分がどうして同じだといえよう。
 恥を知れ鳳凰院鶯妃。この手を握る、この黒い翼を持つ少女はお前よりもずっとずっと気高く誇らしい存在だ。
 孤独に恐怖し、死を悼み、過ぎた後悔とその罪の重責に心砕かれていようとも、その視線はまったく違う方向を向いている。どんなに辛かろうが、どんなに傷が深かろうが、チューリップのその信念は、背負った悲しみにまったくねじ曲がってなどいないのだ。
「………すまない。そろそろ戻ってくれないか……さすがに、この格好では…寒い」
 鶯妃はそう絞り出すのが精一杯だった。上着一枚と肌着しか纏っていないため、夜風が身に沁みるのは本当なのだけれど、それ以上に自身の不甲斐なさが居たたまれなかった。
 その後に投げかけられたチューリップの心遣いの言葉も、今の自分にはあまりに過ぎたもののように鶯妃には思えたのだ。


―――――続く。





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